タイトルには少し語弊があるかもしれません。
基本的に「全ての子どもの将来は明るい!」というのが私の考えです。
それは学校に通っているか否かで差があるものとも思えません。
子どもがどこで、どんな風に進んでいってもいいのです。
誰もが当たり前のように明るい将来に向かって進んでいるのですから。
例えば真っ暗なトンネルの中にいて、その先に見える明かりの方に進まない人はいないでしょう。
人は本能的に光の方に進みます。人はそのようにプログラムされているとも言えます。
ですから本質的には、不登校であってもなくても、周りとは歩く道が違っても同じでも、何も気にしなくていいはずです。
本人も親も。その周りの人たちも。
<「悲観しなくてもいい!」とエールを送ります!>
たとえどんな状況であってもそこにはプラス面とマイナス面があります。
それは誰もが経験的に知っていることです。
学校に通っていてもプラス面とマイナス面がある。
不登校でもプラス面とマイナス面がある。
そういうものです。
そういった観点から、不登校ならではのプラス面をここにお伝えしたく思ったわけですが、不登校の場合、たいてい悲観されます。
ですから、「特に悲観することではないんだよ!」というエールを込めまして、「不登校の子どもさんほど将来が明るい!」というタイトルを付けました。
ある意味「悲観しない」ということが不登校の子どもたちの未来をより明るく照らします。
<不登校の子どもたちの良いところ>
不登校の子どもたちの良いところはたくさんあるのですが、大きくまとめると次の3つではないでしょうか。
キーワードになるのが「自分」です。
- 自分を守れる。
- 自分の意思を持っている。
- 自分で考える力がある。
<自分を守れる>
不登校は自分で自分を守る手段になりますが、そこに至るきっかけには様々なものがあります。
「最初に行きづらいと感じ始めたきっかけ」とは?
以下に令和2年度の不登校の中学生の実態調査結果を5位まで抜粋します。
「最初に行きづらいと感じ始めたきっかけ」(中学生)※複数回答可
1位 身体の不調 32.6%
2位 勉強がわからない 27.6%
3位 先生のこと 27.5%
4位 友達のこと(いやがらせやいじめ以外) 25.6%
4位 友達のこと(いやがらせやいじめがあった) 25.5%
5位 生活リズムの乱れ 25.5%
(参考資料:文部科学省 資料2 (概要)不登校児童生徒の実態調査結果)
1位の身体の不調は32.6%の不登校の子どものきっかけとなっていますが、これは学校に行こうとするとおなかが痛くなったなど、明らかな病気というわけではありません。もちろん病気の前段階の可能性もありますが、例えば学校生活でのストレスやプレッシャーなどによって不調が表れている場合も少なからずあるでしょう。
2位の勉強がわからないというのは、特に中学生になってから急に授業が難しくなり、それが嫌になったという場合が多かったりしますが、中にはそれが今まで気づかれなかった学習障害によるものである場合だってあります。
3位の先生のことというのは、どうしても先生と合わないとか、悲しいことですが先生に嫌な扱いを受けているといった場合もあったりします。
4位は同率で友達のことになります。いじめられているということのほか、特にいじめられているわけではないけれど友達付き合いに疲れたとか、親しい人が一人もいないとか、そういったことも考えられます。
5位の生活リズムの乱れについてはSNSや動画視聴の時間が長くなっているというような原因も考えられますが、何か友達関係や家族関係に問題を抱えていることが原因になっている可能性もあります。
6位以降についても学校生活や生活環境、家族関係などが原因となるような項目が並びます。
ここから見えてくるのは、学校に行かなくなるきっかけにはほとんどの場合、学校生活における苦痛をはじめ、何かしらの苦痛があるということです。
「不登校を選べない子どもたち」
学校生活のほか、家族関係など、不登校の子どもが抱える悩みはいくつも考えられますが、そういった悩みの苦痛に対してどうやって対処するかも子どもによって様々です。
例えば壮絶ないじめを受けているという場合でもその対処方法は分かれます。
不登校になってフリースクールに通うようになったとか、転校したとかいうような、回避型の対処をする場合もあれば、つらくても学校を一度も休まなかったという場合もあります。
一概にどれが正解とは言い切れず、どれもが正解とも言えます。
ただ、多くの場合「いじめ」だけでなく「不登校」というのは、本人にとってもその家族にとってもショッキングなことになります。
「不登校」という選択は実際のところなかなか選びずらく、いじめられている子どもはその事実を親や先生に隠して学校に通い続けることがあります。
「不登校は自分を守るための当たり前の行動」
いじめという苦痛があっても学校を休まないという時、そこからの学びもあることは確かですが、その時最も大切にされているのは決して自分ではないということも確かなのです。
しかも学校を休まないことで得られた何らかの学びや親の安心というのは結果論でしかありません。それまでの過程は苦痛に満ちており、どれだけ我慢しても満足な結果には至らないことも多いでしょう。
何らかの学びや親の安心と引き換えに、深く癒えない心の傷を負ってしまうことも少なくありません。
これはいじめだけでなくほかの原因にも同じことが言えます。
不登校というのは何らかの苦痛に対して自分を守るための自然な行動でもあります。
本質的に自分を守れるのは親でも先生でもありません。自分自身なのです。
例えば急にボールが自分の方に飛んで来たらとっさに手が出ます。その手が不登校ということです。学校に行かないことで当たり前に自然に自分を守ることができているのです。
<自分の意志を持っている>
不登校というのは苦痛から自分自身を守る自然な行動です。一番大事なのは自分です。自分を大事にしないことには人だって大事にできません。
しかし前項でも説明しましたが、自分を守ることが第一になっていない場合、不登校という選択がとれなかったりします。
「周りの目が過剰に気になる」
学校を休むということ、不登校になるということに対して、周りにどんな風に思われるか?親はどんな反応をするか?先生は?友達は?
そもそも学校なんて休めない。
みんな行ってるじゃない。
行かないなんてことは選べない。
こういう気持ちは誰しもに少なからずありますが、この場合、厳しい言い方をすると、単に周りの目が気になっていたり、「みんな」から外れることを恐れたりしているだけの場合もあります。本質的な自分の意志には気づかないようにしたり、意識的に無視したりすることで自分の意志に蓋をするのです。
こういったことは子ども本人のみならず、親をはじめとする大人にも強くある場合があり、それを子どもに要求するケースもあります。
これは日本の社会や学校教育の抱えるデメリットになります。
自分の意志ではなく、周りの目や同調圧力を過剰に気にするような教育や啓発、報道などが行われています。
実際のところ周りの目も同調圧力もあってないようなものですが、ほとんどの人が過剰にそれに反応します。
「人は周りの目が気になる生き物」
もちろん周りの目や同調圧力が気になるということが、決して悪いことばかりではありません。
過剰すぎるというのは問題ですが、全く気にしないというのも人間の本能的な部分から言うと不自然で極端です。
人は周りの目も同調圧力も気になる生き物なのです。
そういった感性は社会で集団で生きるためのライフハックでもあり、周りの目を気にして学校を休めないという場合でも必ずそこにも学びはあります。
「自分の意志は自分らしさのために」
ただ、周りの目や同調圧力の存在を知りながらも不登校を選ぶという時、そこには自分の意志がはっきりと存在します。
つまり、言い方を変えると、自分の意志がしっかりあり、その意志のとおり行動できるということは、自らの手で本質的な自由をつかみ、自らを導いていけるということなのです。
それは自分の思うように自分らしく生きていくために不可欠な要素となります。
<自分で考える力がある>
不登校という選択をする時、「自分で自分を守るため」に、「自分の意志を行動にうつすため」に、「自分で考える」必要があります。
周りから見ると決して考えているようには見えず、単にだらけているようにしか見えないかもしれません。
しかし、当の本人は当事者として驚くほど考えていたりします。
そのように見えなかったのは、単に考えていることを話さないだけ、と言うか、何でも聞いてくれそうな人が周りに一人も見つからず、誰にも話せないだけという場合も多いです。
「高い知性とクリエイティビティの発現」
また、不登校は何らかの苦痛がそのきっかけになっていることがほとんどですが、単にそれだけが原因とは言い切れません。どういうことかというと、苦痛と同時に将来への明るい希望が不登校という形になって表れている場合もあるのです。
「私は、僕は、こういう風に生きていきたい。」
「好きなものがあってそれをずっとしていたい。」
そんな明るい未来へ思いをはせていることも少なくありません。
自分らしく生きるためには学校はあまりに窮屈で苦痛でしかたないという時、不登校というのは単に回避型の行動というより、その子どものらしさを加速させる積極的な行動になります。
実際のところ、不登校の子どもたちの中には高い知性やクリエイティビティを発揮する子どもも少なくありません。
<これからの子どもたちに社会が求めること>
数十年前は日本は大変な学歴社会でした。もちろん今でもそのきらいはありますが、それはさらにすごいものでした。
学歴さえあれば幸せを約束されるような幻想があり、子どもたちはみな詰め込み教育を受け、高い学歴の取得を目指すように促されました。
ただその結果として今見えてきているのは、単に学歴だけが幸せのパスポートではないということです。
学歴うんぬんよりも人間力のある大人たちが今の社会で活躍しており、そのことを多くの人が認識しています。
さらにその当時では誰もが社会の歯車として働くことが推奨されました。
しかし、現在、人は機械の一つのパーツではありえないという当たり前のことが露呈してきているように見えます。
テクノロジーの驚異的な進歩もあり、もしいまだに人を機械とするならば完全にAIなどに負けてしまいます。
そこでこれから人にはより人間らしさを求められるような社会になると言われています。
<不登校の子どもたちはすでに持ち合わせている!>
不登校の子どもたちの良いところとして説明してきた以下の3つの項目ですが、これをじっと見てみてください。
何かにお気づきにならないでしょうか?
- 自分を守れる。
- 自分の意思を持っている。
- 自分で考える力がある。
先ほどの項で、これからはより「人間らしさ」を社会に求められるようになると説明しました。
人間らしさとは人間としての尊厳と、自ら思考し行動する知性やクリエイティビティで、それは上記の3つの項目に当てはまります。
人間らしさは全ての子どもたちに求められるようになりますが、不登校の子どもたちは実際の経験からそれらをより体現し、日々の苦悩の中でさらに研ぎ澄ませていると考えられるのです。
自分の人権や尊厳を大切にし、自ら考え挑戦し、新しいものを作り出していく。そんな素敵な生き方に誰が水をさせるでしょうか?
<天才でなくても、何かに秀でなくてもいい>
天才であったり、何か突出した才能があればそれは大変すばらしいことです。
しかし、それは決して人間らしさや高い人間力のための条件ではありません。
天才ではなくても、何かに秀でていなくても、それでいいのです。
それで十分、人間らしく生きられますし、高い人間力を持てます。
「自分のままで心地よく生きる」
誰にでも「できること」と「できないこと」があります。
ここで言う「できる」「できない」は単にそれが上手か下手かではありません。才能があるかどうかとも少し違います。
言うなれば、それをすることが心地よいかどうかということに近いです。
それを続けられるかどうか、飽きないかどうかと言ってもいいかもしれません。
さらに「できること」と「できないこと」を細かく見ていくと、「まずまずできること」があれば、「すごくできること」もあったりします。逆にできないことに関しても「あまりできないこと」があれば、「全くできないこと」もあったりします。
みながそういった特性をそれぞれ持ち合わせているのです。
その特性は、まるでゲームのキャラクターのように、最初からあらかじめ設定されているものだったりします。
あらかじめ生まれ持った特性のままそれを最大限に生かして生きる。それはまさに自分を主人公にしたゲームさながらですが、そうやって自分の特性を見極め、無理の無い自分のままで心地よく生きる方法を探していくのが、人間らしさであったり人間力であったりするのです。
「できることと同時にできないことも大事!」
自分の特性についてはたいてい「できること」にばかり注目され、「できないこと」については曖昧なままになっていたりします。
しかし、人間らしく心地よく生きるには、自分の「できること」と「できないこと」のどちらにも同じくらいに注目し、大事にすることが肝心になります。
不登校の子どもたちの自分と向き合う日々では、中でも特に「できないこと」にばかり意識が向く傾向にあります。
それには苦しさも伴い、バランスを欠いてしまいがちですが、決して無駄なことではありえません。
これから無理なく、人間らしく、自分らしく生きていくためのアグレッシブな作業ともとれるのです。
<さいごに>
不登校ということで不安に押しつぶされそうになる日もあるでしょう。しかし、それは、これからの明るい将来への道筋でしかないのです。
不登校を経て幸せに心地よく暮らしている大人もたくさんいます。
学校に行かない日々の中では様々な模索が続きます。
「自分には何ができるか?」「できることを伸ばすためにはどうすればいいか?」、
「自分には何ができないか?」「できないことをしないようにするにはどうすればいいか?」、もしくは「できないことを補うにはどうすればいいか?」
不登校はそうやって自分に向き合える大変有意義な時間になります。
模索しながら自分にとって最適な方法を一つ一つ体得していけばいいだけです。
特に悲観もしなくていいし、焦る必要だってありません。
安心して明るい将来へ向かって行ってください。
私もぜひ精一杯お手伝いできればと考えています。
