「あそこのお子さんは不登校なのに外で遊んでいます」こんな電話が学校にかかってきたりするそうです。
また、ネット上には「不登校なのに遊んでるなんてずるい」というような書き込みもたくさん見られます。
不登校のお子さんを持つ親御さんですら子どもを遊ばせることに抵抗があるようなケースもあるようです。
最初にはっきりと書いておきますが、「不登校」と「遊んでいる」ということは特に矛盾しません。
不登校だからといって遊べないというわけではありませんし、ましてや遊んではいけないなんてことは全くありません。
もしそんな風に他人が言ってきたのなら、それは人権侵害以外の何物でもありません。
普通に遊ぶ子どもからわかること
不登校の子どもが普通に遊んでいるということでわかることがあります。
それはその子どもが健康的だということです。健康的な心身を持っているからこそいつもと変わらない様子で普通に遊ぶことができます。
健康な子どもが学校に行かない、もしくは行けないという状態を鑑みると、いかに学校がその子にとって合わない場所なのかがわかります。
改善すべきは学校の方かもしれません。
遊ぶことは息をすることと一緒
子どもだけではなく人間にとって遊ぶということは息をすることに等しいです。
生きるために当たり前に必要になる活動です。
人間の歴史の中では様々な困難がありましたが、そんな中でも人は遊び心を持ち続けてきました。
遊びとはどんな状況であっても誰にも侵せない大切なものです。
それに比べて不登校というのはただ学校に行っていないという状態なだけです。
学校に行かないから息をしているのはおかしいですか?
「あの子は不登校なのに息をしている」と学校に電話をかけるのは当然ですか?
そんなことはないですよね。
抵抗を感じる人自身の問題
「不登校なのに遊んでいる」
「学校には来ていないのに遊んでいるのはずるい」
そう考えるのはそう考えた人自身に何かしらの心のわだかまりがあるからです。
それは不登校の子ども自身には何も関係がありません。
「不登校なのに遊んでいる」と感じる人が不登校の子どもが遊んではいけないと考えているのはなぜでしょうか?なぜずるく見えてしまうのでしょうか?
「学校というのは絶対に行かなきゃならない場所なのに・・・」
「みんな嫌でも行っているのに・・・」
「みんな頑張って授業を受けている時間なのに・・・」
そういった心理が働くのではないでしょうか?
学校に絶対に行かないといけないというのはそう考えている人だけをその考えが縛っています。
みんな嫌でも学校に行っていると思っている人はその思いに縛られていますし、みんな頑張って授業を受けている時間なのにと思う人はその思いに縛られています。
不登校の子どもが遊んでいることに抵抗があるのは、そういった自分の考えや思いに縛られている窮屈さが露呈しているだけなのです。
ですからそれはその人自身の問題でしかないので、不登校のお子さんやご家族が特に気に病むことはありません。
とは言え、実際に色々と自分の問題をそうとは知らずに人に言ってくる人がいます。
すごく面倒ですがそこは他人の問題として、自分は自分ということで強くいていただけたらと思います。
さいごに
どうしてこんな世の中になってしまったのだろうとふと思います。
誰もが過剰に人の目を気にして、気にされて、相互に監視するような状態です。
もちろん全く気にしないというのも不自然ですが、とにかく過剰になりました。
その点、不登校の子どもというのは、ある意味そこから自由になっているとも取れます。
多くの人が望んでもできないことをしているとも取れるのです。
自由になりさらに楽しそうに遊んでいる姿に、多くの人が嫉妬してしまうのかもしれません。
皆が皆、自分の問題や課題を抱えておりそれに取り組んでいくのが人生です。
不登校という形で自分の問題に正面から取り組んでいるお子さんを尊重し、尊敬し、温かい目で見守れる世の中にしたいものです。
