特に義務教育の小学校や中学校では、「学校は当たり前にみんなが行くところ」という風に誰もが思っていたりします。
ですから「学校に行けない」「学校に行きたくない」という時、子ども自身も親御さんも、さもダメな変わったことをしてしまっているような気持ちになり、不安を感じることも多いようです。
しかし、実は「学校は当たり前にみんなが行くところ」というのは、みんなで持ちそれぞれがそのように行動して支えている固定概念とも言えます。
実際には選択肢は学校以外にもあるのですから。
それに、「当たり前」という点で言えば、「学校に行きたい」という子どもとともに、「学校に行けない」「学校に行きたくない」という子どもがいるのもごく当たり前なのです。
<「みんなちがって、みんないい」の実現>
歌にもなっている金子みすゞさんの有名な詩を引用させていただきます。
「私と小鳥と鈴と」
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんの唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
学校行事でこの詩の歌を歌われたことがある方も多いかと思います。
「みんなが持っている色んな特徴や個性。それはそれぞれみんな違っていて、みんなそれぞれ素敵だね。」というようなことだと思います。
とても大事なことが多くの人に伝わる素晴らしい詩です。
これは憲法に定められている基本的人権の尊重にも通じ、学校現場のみならず社会の根幹にあるべきものです。
<学校で得られる社会性>
学校は単に教科だけを学習する場ではありません。
社会で生きていく上での力を育むことにも重きが置かれています。
社会性は多様な人の中に身を置くことで育まれていくので、そういった意味では学校は絶好の場とも言えます。
しかし学校という場の中では多様性と統一性が拮抗しているのです。
実際は拮抗というよりか対立でもあり、統一性の方の比重が多いでしょう。
統一性は単に効率よく授業や行事を行うためにも必要とされますが、それだけではなく、日本という国で社会人として生きていく資質を育むためにも必要とされます。
多様な子どもたちはそんな中で集団行動を身につけ、意志を統一する訓練をしていきます。
それが学校で得られる社会性というわけです。
<本質的な社会性>
本質的な社会性とは、自分と自分とは違う人とを尊重し認めることです。
多様な特性を持ち多様な考え方の人がいて、そんな様々な人の多様さとともに、自分自身の特性を尊重し、それを認め生きていくということなのです。
まさしく「みんなちがって、みんないい」に尽きます。
もちろんそんな本質的な社会性を育むために、学校では現場の先生たちも含め様々な試みが行われてはいますが、昔からある構造的な問題も大きく、なかなか時代に合わせて変化できない現状があるのです。
これは学校が抱える大きなジレンマで、現在のところしかたのないことです。
結局、学校では先生の意見や多数の意見に合わせることとなりますし、みんなと同じ行動をとる必要が出てきます。
<実社会は多様性にあふれている>
一方、実際の社会は多様性にあふれています。
その中で、もちろん集団行動ができるといったような、学校で培った社会性も重宝されます。
ただ、それだけが大事というわけではないことを、特に親御さんはこれまでの人生の中で学ばれているのではないでしょうか。
例えば「働く」ということを例にとると、サラリーマンとして働く人もいれば、ユーチューバーとして成功する人もいます。自分の店を持つ人もいますし、フリーランスで働いている人もいます。アルバイトで生計を立てている人もいれば、相続財産があり働いていない人だっているでしょう。障害を抱えながら働く人もいますし、障害や病気など何らかの事情で働けない人だっています。
実際の社会には色んな人がいて色んな事情があって、色んな暮らし方をしている人がいます。それぞれバラバラの人同士で時には助け助けられて、時には力を合わせてそれぞれの幸せを目指しましょうというのが私たちの身近にある社会なのです。
つまり、学校で得られるような社会性だけが生きていくために必要なわけではありません。必ずしもみんなで同じ目標を見据えて、みんなで一緒の行動をすることだけが大事というわけではないのです。
<学校は一つの手段>
学校は子どもたちの教育に対して多すぎる課題を背負わされているとも言えます。
それはとても学校だけが担えるものではなく、学校だけで実現するには無理があります。
学校ではその体制や状況から学べることは限られるというのが現実で、やはりそれは現状ではどうしようもないことなのです。
昔は学校のほかに選択肢はほとんどありませんでしたが、今ではフリースクールや塾の他、家庭で勉強している子どももいたりして様々な選択肢があります。
根性論で我慢してでも学校に通うことに固執する子どもや、そう望む親御さんもいらっしゃり、そこで学べることも決して否定はしません。
しかし、そこでの我慢は単に問題の先延ばしに終わってしまう場合だってあります。
時には我慢も大事ですが、困難に出会った時に新たな道を模索するということもその子の人生にとって大きな学びとなるでしょう。
<学校での人間関係のトラブル>
また、「学校に行けない」と子どもが感じる理由として、学校での友人関係や先生との関係が問題になっている場合もあります。
学校自体が合わないわけではないけれど、そこにいる人と合わないという場合です。
時にはいじめにあっているという場合もあるでしょう。
そういった人間関係の問題の解決を試みてもなかなかうまくいかないという時、学校に行きたくなくなるのは当然です。
特にいじめの場合はいじめる側に深刻な問題があるケースも多いです。
心と身体を守るために学校に行かないというのは賢明で当然の判断です。
転校やフリースクールへの通学など、場所を変えることも選択肢として有効でしょう。
<学校という水槽>
さかなクンが2006年に朝日新聞に寄稿した記事に、大変するどい指摘がありました。
いじめは魚の世界と似ているということです。
広い海で仲良く泳いでいたメジナを水槽に入れると、一匹だけを標的にして攻撃が始まったそうです。いじめられたメジナを違う水槽に移すと、元の水槽ではまた新たな一匹を標的にした攻撃が始まったそうです。
これは私も決して魚の世界のことだけとは思えませんでした。もし学校が狭い水槽のような閉鎖的な場所で、そこしか知らない子どもばかりだったなら、それ自体がいじめの要因になってしまう可能性も考えられます。
もちろんそれだけが問題となるわけではありません。しかし、多様性がないところには社会性も生まれにくいというのは当然の帰結ではないでしょうか。
<困難に直面しているお子さんに>
学校に通って、楽しく前向きに過ごせているのなら何も問題はありません。
その子には学校が合っているのです。
ただ、多様な子どもたちの中で、学校が嫌だとか辛いと感じる子どもがいてもなんら不思議はありません。
その時その子どもは、特に自分を責める必要はありません。
嫌だということを行動に移せるというのはむしろ賢明で健康的だとも言えます。
困難に直面しているお子さんに言いたいのは、まず自分を大事にしてほしいということです。
誰かじゃなく自分を。
自分の判断を何も恥じることもないですし、誰かに謝る必要もないです。
自分がかけがえのない存在だということを理解してください。
そして自分が自分を誰よりも一番大事にしてください。
そこから全てが始まります。
むしろそこから始めなければ、人のことだって大事にできません。
学校に行けないという時、それにしっかり向き合ってください。
大事な自分のために。
学校に行けないなら行けないで、また新たな次の展開を考えて行動してください。
今後いや、ひいては今、あなたが心地よく過ごせる方法を考えて、思いついたことをすぐそのままやってみてください。
それはつまらないことでも、難しいことでも、変わったことでも全く問題ありません。
自信がないと言って、何かをするには自信が必要だとは思わないでください。
必要なのは勇気だけです。
親に打ち明けるとか、気になるところに電話をかけてみるとか、ちょっとした一瞬に出す勇気だけでいいのです。
それだけでそこから始まっていきます。
世界にたった一人だけの特別なあなたのためになることです。
どんなことでも何でもしてみてください。
<困難に直面しているお子さんの親御さんに>
親御さんにはお子さんのことを心配しすぎないでくださいと言いたいです。
お子さんのことを心配しすぎて、自ら導いていこうとしないでください。
私が言うのもおかしいですが、私のような専門家の言葉や誰かのアドバイスを丸ごとあなたのお子さんに当てはめないでください。
教科書はありません。
あなたの子どものことを見て、あなたの子どもの話を聞いてください。
教科書があるとするならばそれはあなたの子どもそのものなのです。
あなたが矢継ぎ早に提案するのではなく、子どもの提案を待ってください。
あなたも元々子どもだったのでわかると思います。
親に先回りして色々言われることほどやる気がそがれることはありません。
子どもを見守るというのはつまり、「待つ」ということです。
待った暁に子どもからの提案が出てきた際には、あなたが子どもに導かれて行ってください。決して子どもの邪魔をしないようにサポートだけするのです。
しかし、十分待って、それでもうまくいかない時にはどうぞ私にご連絡ください。
<さいごに>
「みんなちがって、みんないい」これは自然の摂理でもあります。
森は様々な動植物が生きることによって豊かさを保ちます。人は森に対して欲で介入し、多くの森から多様性を奪って砂漠にしてきました。
私たちはそれと同じことを自分たちにもしようとします。
学校に行きたい子どもがいても行けない子どもがいても、どちらもそれぞれいいのです。
色んな子どもがいるのが当たり前です。
自分と違う考えが許せない人が「それは普通ではない」と言って批判してくることもあるかもしれませんが、それはそのまま言った本人の問題なので聞き流せばいいです。
大切なのは人の意見よりも、学校に行くか行かないかよりも、いかに自分で自分を楽しく導いていけるかではないでしょうか。
不登校だという場合、それは特別なモラトリアム期間にもなります。
ぜひ人生の新たな展開のために有効に使っていただけたらと思います。
